10代の頃から敬愛している詩人の石川逸子さんが、最新の詩集「たった一度の物語~アジア太平洋幻視片」(2013年5月1日 花神社)を贈ってくださった。石川さんは、あとがきで次のように述べておられる。「戦争体験者が次第に消えていくのをよいことに、平和憲法がいよいよ根こそぎ奪われかけようとしている今、そのとき子どもだったものとして戦争の実相を少しでも遺しておきたいと、このようなものを編みました。」
石川さんは、ずっと戦争の犠牲になった人たちの魂に寄り添って詩を書くことに心血を注いでこられた。原爆の犠牲者、千鳥が淵に眠る死者たち。劣化ウランの犠牲となったイランの子どもたち、そして良い働き口があるからと故郷から連れ去られ、日本兵の性奴隷にされ、心もからだも青春も人生も蹂躙された少女たち・・・
「寄り添う」ということばは、石川さんの表現として生ぬるいかもしれない。手がかりとなる資料をもとに、石川さんの修練を積まれたペンの力で浮き彫りにされていく人々の像は、心臓の鼓動さえ聴こえるように生々しく感じられる。<幻視片>ということばが、副題のなかにあるが、立ち上ってくる像がたくさんあった。
今朝、フェイスブックにそこから「少女」という詩を紹介させて頂いた。
ここでは、石川逸子さんの詩集「ゆれる木槿花」(1991年7月7日 花神社)より「なぜ」という詩を紹介させていただきます。
なぜ
石川 逸子
山は山 雲は雲
セキレイはいつだってセキレイなのに
なぜ ひとは ある日 鬼となって
白い花花を押しつぶし
憎しみの坂を駆けていくのだろう
萌えだす春の精のように
ひとりの乙女が
チマ・チョゴリ着て歩いていくとき
緑のうすぎぬが風にゆれるとき
<麗しい>という古語はよみがえってくるのに
この国のいくたりかの男たちは
後ろから その可憐な咽喉に紐をかけ
強く絞めたのだ
花のような首すじに
紐跡は くっきり刻まれた という
(ひそひそと背後から指差す
いくたりかの女たちもいた)
幾月かのち 紐跡は消えていこうが
乙女の心に刻まれた
怖れと かなしみと 怒りは
むしろ濃くなっていくに違いない
男たちは(女たちも)なぜ 鬼になったろう
なぜ 花が花に見えなかったろう
(鬼になりかけの眼でわらっている
数多くのものもいたりして)
*大阪市長 橋下徹氏は、あろうことか、「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる。」と述べ、慰安婦の必要性を主張した。もう彼の頭のなかは、選挙に勝って戦争ができる日本国憲法に改定された状況を先取りをしているのだろうか。戦時体制になれば、このような品性卑しい輩がはびこり、偉そうにするのだということを改めて認識させられ、ぞっとした。
個人の命や人権を重んじ、一切の戦争を放棄する今の日本国憲法が守れるかどうかの瀬戸際にあるように思う。少しでもわたしにできることを、私なりに発信していきたい。
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ライダイハン (火曜日, 13 1月 2015 16:22)
憲法改正を叫ぶ事も言論の自由として保証されるべきことなのに、何故それを制しようとするのか分からないな。
だから日本の左翼は若者に馬鹿にされるんだ。